「高山不動御七鳥居版木」の刷る参詣道を目にしてから、もう数年来そこに描かれている「龍ヶ谷龍窟」を捜し求めていた。しかし、越生叢書[2]や、地元の人がいう「龍淵」や「龍窟」には今一つ何かが欠けている様な気がした。それというのも「武蔵国風土紀稿」に以下の一文があったからである。■川龍穏寺の右の方にあたり、五 六町をへだてて谷間より落ちる滝あり。これを不動滝と呼ぶ。さまで大なる滝にはあらざれど、間断なく水飛び流れるゆえ、流末に至りては広き川となれり。又、彼の滝壷の下流に龍窟と云う所あり。ここよりも水湧出す。其の余、谷々の清水湊合するもの少なからず。其の川中に岩石多くあり、常に出没し激流するゆえ水勢もいとはげし。この流れ大満村に至り黒山川に合し後、越辺川と唱えり。当村を流るる間を指して他村にては龍ヶ谷川、或いは龍穏寺川などと呼べど、一間許りの小川なれば村内にては反って無名の川なり。■龍窟境内北の方なる山の谷あいにあり。飛泉の末流、この所を流れる。かの古え龍の住みしと云うは此処なりとそ。今尚、窟の広さ、畳五 六畳を敷く程なり。この記述によると百七十年以上前には龍窟の広さも三坪程度あった事になり、現在「龍窟」と呼ばれる流域には、そのような洞穴は見当たらない。そこで入集落の自然石道標から、男瀧(不動瀧)まで沢登りをしようと覚悟を決めた。とはいえ、川沿いに林道も走るし、距離もそうあるわけではないので、危険な箇所さえ慎重に歩けば何とかなるだろう。そうしてあっけなく「龍窟」と呼ばれる小滝を過ぎて、瀧不動に着いてしまった。だが「龍窟」と呼ばれる小滝は、森厳な雰囲気を漂わせているものの、やはり洞穴と呼べるようなものではなかった。―が、しばし逡巡する間に地元の人が通りかかり、運良くお話しを窺う事ができた。「龍淵?ああ、龍窟の事か。子供の頃によく潜ったよ。岩の下は確かに畳五 六畳の広さはあるよ」とのお話しである。「―しまった」正直そう思わずはいられなかった。「高山不動御七鳥居版木」が製作された時代から幾星霜を経て「龍窟」の置かれる状況は、著しく変化していて当然であったからだ。しかし、この事実が結局は幾つもの疑問を氷解させる。或いは「高山不動御七鳥居版木」が描き出す宗教的アジテートは、「四寸岩」に加えて「龍ヶ谷龍窟」も含まれていたのかも知れないと。版木の製作年代は不祥だが、龍穏寺創建以前から修験達の間で「龍ヶ谷龍窟」が聖域として扱われていたとすれば、全ての辻褄が合う事になる。龍穏寺は古くから高山不動を「奥ノ院」と称し、新住職が入山する時には必ず高山不動に参拝するのが慣わしだったという。そしてそれは、開山無極禅師が高山不動に参禅した故事に倣ったものだそうだ。この無極慧徹という人物は佐賀の生まれだが、先祖は児玉党越生氏の出自と伝えられ、桂木寺に参籠した後、龍ヶ谷に霊威を感得して龍穏寺を開山したという。この時、龍ヶ谷道沢には堂沢観音があり、そしてそこを龍穏寺草創として後、五世雲崗舜徳禅師の時に太田道灌父子の協力を得て現在の地に大伽藍を建立したとされる。そして龍穏寺を興隆させたのがこの雲崗舜徳で、伝説では悪龍を有馬山へと追い遣ったのが雲崗禅師とも、或いは開山無極禅師ともいわれている。また、雲崗禅師は龍穏寺の前にある天狗山(羅漢山)に住んでいた天狗と化した悪僧をも帰依させたという。つまり龍穏寺創建に纏わる逸話に登場する龍や天狗は、悉く既存宗教や修験者達に置き換える事ができてしまうのだ。道元が曹洞宗を興したのが鎌倉期であるから、無極禅師が越生を訪れた頃には曹洞宗もまだ新興といえた。平安仏といわれる桂木寺や堂沢観音、また高山不動は既存宗教として越生郷を地盤に権勢を振るっていただろう。そしてそこに無極禅師が入山するにあたり、高山不動や「龍ヶ谷龍窟」は大きな宗教的アジテートになり得たであろう。多くの修験者達が跋渉するこの山域に、布教に対する一筋の光明を見出したとしても不思議ではない。「雨乞い龍神紀行」にも記した様に、何故、曹洞宗の龍穏寺が雨乞いネットワークとともに教線を拡大していったかもこれで謎が解ける。川角村を一ノ鳥居とした高山不動は、如意や大谷を経て龍ヶ谷に至る。そしてこの山域を中心とした龍ヶ谷を直線的に抜け、道沢から登頂すれば御嶽社のある「四寸岩」へと辿り着く。もう一人のご老人からはかつて「三枝庵」のある山中に天王社があり、そこからは村内四方に道が抜けていたと伺った。勿論、この天王社へ向かえば小寺から道沢にも行けたという話であるから、この道が高山不動の参詣路だった可能性は高い。因みにこの天王社にあった灯籠が、現在、龍穏寺惣門前の岩上に建立されている灯籠なのだそうだ。加えて井戸入の御嶽社についてもお話を伺ってみたところ、あの社は明治期に浅見氏(黒山)、藤野氏(大満)、島野氏(龍ヶ谷)が勧請したものだそうだ。また、大正十一年(1922)の「黒山案内」に次の記述を見ることができる。「龍穏寺は五大明王威徳によって発端ありし故、今に御朱印に「龍瀾」という所に鳥居寄進あり」と―。これで、この龍穏寺のもと朱印地の「龍瀾」が、高山不動山下の鳥居であることが明白となったはずだが、肝心の「龍瀾」にあったという鳥居を見た者がいない。―いや、唯一人それを知る人物がいた。前高山住職・田中隆孝氏の話によれば、「高山不動山下の鳥居は黒山と龍ヶ谷の中間の山中にあった。私は先代住職からその鳥居が高山不動の一ノ鳥居と教わった」との事であった。ご存知の通り、明治初頭に「神仏分離令」が発布され、寺院と神社の区別は明確に別けられ、翌年に修験道も廃絶された。だから大正期においてまだ「龍瀾」に、高山不動の鳥居が寄進されたとなると辻褄が合わない。つまり、明治期にはまだ修験名残りの人々がいて、御嶽社を勧請するとともに、じつは高山不動の「一ノ鳥居」をも残していたのではないだろうか。―ふと、そんな思いで再び御嶽社に訪れてみた。社には昭和期中頃に打ち付けられた木札があった。「奉納 一ノ鳥居」―御嶽社の参詣路に鳥居がいくつも寄進されたとも思えず、「一ノ鳥居」とわざわざ記した事からして、おそらく田中住職が修行時代に見たという山中の鳥居とはこれだろう。そしてこの時、長く想い描いていた「高山不動参詣路」のパズルは、「パチン」と音を立てて完成した。下段左:龍ヶ谷龍窟 下段右:龍穏寺山門と蒲団岩(蒸麩岩=シェンフ岩)