画像タイトル:越セン岩の防御ライン -(92 KB)

大築城再訪(2)・9/12 名前: 管理人 [2009/09/22,19:58:41] No.244
越セン岩を過ぎると道は鞍部に達し、猿岩峠の標識がある。そしてモロドノ郭に向かい瘠せた尾根渡った所に「大築城」への指標がある。この道は遠見までは搦め手への道だが、峻坂を稜線歩きのハイカーが道をつけて本郭へと登っている。久し振りに訪れた本郭からは、慈光寺方面を望むことは残念ながらできなかったが、大築城は馬場から遠見を経て本郭、そして小築山からウージー坂までを含めた尾根上に構築された城郭のように思う。

麦原の人達は地域活性に積極的で、大築城と小築山を周回ルートとして指標を整備してくれている。本郭から尾根を切り欠いた堀を下って東に向かうとすぐに小築山との鞍部に達する。そして指標に従えば小築山の山頂に向かうのはわけもない。その頂きで、こちらが烽火台に用いられたと想像するのは難くない。しかし、それよりもさらに東に向かって40mほど比高を下げた削平地が気になる所―いわゆる大築城の段。伝説では水に見せかけた白米で馬を洗ったともいわれ、これと同様の話は松山城にも残っている。曰く、武田勢が篭城する松山城に手を焼いていたところ、城兵は余裕で馬を水で洗っている。さぞや城中には水がふんだんに確保されていると武田勢に見せかけていたのだが、「あれはただの白米じゃ」と酒屋の婆が密告したので、信玄は甲州から金堀衆を呼んで水の手を切ったと―。

じつのところ、この削平地も慈光寺からはよく見える。大築城(陣城)構築が慈光寺勢に脅威を与える為なら、こちらにも何らかの建造物があったとしても不思議ではない。そして道はさらに進んでウージー坂と西行杉方面の別されとなる。折りしも、ちょうど地元の人が間伐作業をしているところに出くわした。挨拶の為に声を掛けたのだが、突如現れた怪しい男にまるで天狗にでも会ったかのような表情をしていた。こちらの道から下山するハイカーは滅多に無いし、ましてこの界隈を一人歩きしている者も稀なので無理のない事かも知れない。

そしてこの別されまで来ると、奥畑(西川原)からの入口となるウージー坂まではわけもない。下るだけなら20分もあればバス停に着くはずだ。また、源頼朝が慈光寺祈願の為に敷設した鎌倉街道脇道「慈光道」もさほど遠くない。成立年代不詳、『天正庚寅松山合戦図』の惣郭に見える大附左近清久が一族発祥の地「内手」もまたしかりである。以上から比企の城に共通する縄張りは上田氏によるもの、そして城番は大月氏と考えても良さそうだ。さて、その上田氏だが「新編武蔵国風土記稿」によると、病に悩んでいた上田朝直が霊夢によって浄蓮寺の尊像に導かれ、これを探して祈願したところ忽ち平癒したので、松山城中の者は悉く浄蓮寺の檀那になったとある。

思うに、上田朝直は自ら進んで浄蓮寺に帰依したはずだ。天海によって関東の比叡山と呼ばれる東叡山寛永寺が建立される以前、源頼朝が庇護した慈光寺は台密の関東別院となっていた。見方を変えれば反後北条勢はその冒せざるべき聖域を根城にしていたともいえる。在家であれば妻帯もするし、酒肉を食む者もあったであろう。当時、この既存の宗教的権威に信仰上から対抗するには、法華宗への改宗も必然であったのだろう。上田氏は慈光寺焼き討ち後の天文十九年(1551)に、かつての慈光領を浄蓮寺に寄進している。そしてそれ以降、多くの檀那衆を失った慈光寺がかつての栄華を取りもどす事は終になかった。

下段左:杉木立の中の猿岩 下段右:大築城本郭


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