『越生聖護院門跡講』はかつて聖護院門跡が大平山に登拝した事で、九月十二日を縁日としている。講長の柴崎さんは山本坊所縁の家柄で、大平山の役行者像とは縁が深い。以前は個人で参拝していたが、講を立ち上げてから私も何度かご一緒させていただいている。一昨年には何者かに役行者像が引き倒されて、頭部を一失するという事件に見舞われたが、幸いにして川越市の彫刻家新谷一郎さんの手によって見事に修復されている。また、この修復費用は町助成金と越生町内の約百二十人からの浄財で賄っている。当然ながら私も微力ながら援助させて頂いているので、お誘いを受けて参加させていただく事にした。とはいえ、関越道の土曜渋滞はいつもの事で、早出したつもりが九時の集合時間にはギリギリセーフ。店の前に出たところで柴崎さんの車に拾ってもらう。そして一路唐門へと向かい、そこに車を駐車してから大平山への山道を辿る。山道とはいっても役員さん達が事前に整備をして置いてくれた為、ご高齢の人達にも無理なく歩けたはずだ。役員さん達は、凡そ一週間にわたり役行者像の頭部を捜索するほど信仰心が篤い。それにしても像を破壊するのみならず、像の頭部を持ち去るという行為は単なる悪戯とも思えない。ともあれ、計らずも当該事件によって、役行者像を取り巻く環境も良くなっているのもまた事実だ。(現在、役行者像は町文化財に指定されている)神山氏の著述によると、この役行者像は幕末に尾張屋三平が奉納したと記されている。しかし、実際には西戸村講中(毛呂山町)が奉納したものである。確かに尾張屋三平は同時期に、町内の要所に黒山三滝及び大平山への道標を建立しているので、伝聞ではそれも無理からぬ事かも知れない。尾張屋三平が吉原から引き連れてやって来たのは華美を極めた花魁道中だから、あるいはこの時に、西戸村でも大平山への信仰意識が高まったようにも思える。修験山本坊は室町時代に黒山霊場を開き、後に一族は西戸村に移住している。相馬家配下の浅見氏、柴崎氏もこれに追随しているので、前出の柴崎さんが縁者というのはそういった事情からである。越生には古代から和州三山になぞらえた霊場があったという。この事はすでに『旅の道標』―西山・森の詩―に記した。そしてこの伝説をもとに、黒山霊場を開いたのが山本坊(相馬家)だといえる。大高取山山塊が吉野金剛界だとすれば、山本坊は黒山山塊を熊野胎蔵界とする事によって、越生郷一帯に拡がる霊場を現出させたのだ。しかし、黒山にはもともと「藤原御大尽」と呼ばれる一族が先住していた。隣町の豪族・毛呂氏の遠祖は藤原氏であるから、黒山にその種を落としたとしても、まるで根拠の無い話ではない。(京から来た貴人が越上山に御幣を立てたという伝説も、藤原(毛呂)氏であるなら至極尤もらしい)山本坊円栄が平将門の後裔(相馬)を名乗ったのも、ある意味必要に迫られて、という事もあったのだろう。さて、この日訪れた役行者像は靄に包まれて幽玄な雰囲気の中にあった。修復された役行者はどこか微笑んでいるようにも見える。彫刻家新谷さん渾身の力作であるし、修復して数年を経て胴体との違和感もなくなった事もあって、役行者像は以前と少しも変わらない状況になりつつある。だが、破壊されてしまったものはもう二度と元には戻らない。自分が知る限りでは役行者像は時には微笑んでいるように見えたが、またある時には周囲を威圧する威厳を見せた。土地の人は「大平山の鬼」と呼んで、あまり近付かないようにしていた時期もあったという。聞くところによると、かつての像には象眼が嵌め込まれていて、夕暮れ時に訪れるとそれがピカーリ、ピカリと光っていたそうだ。一方、ときがわ町の慈眼坊(武藤家)は山本坊副先達を務め、『着色墨書役行者絵巻』を今に残している。また、この慈眼坊が別当を務める多武峰神社の由来は、七百六年に大和国多武峯山から藤原鎌足の遺髪を遷して多武峯大権現を建立したのが始まりとされ、さらに室町時代に毛呂顕季が奉納したという鰐口がある。事の真偽は判らないが、そこに権威を巧みに取り込んでいった修験達の思惑が垣間見えるようで興味深い。伝説は山谷を跋渉する修験者達によって、日本各地に伝播され、同じ様な話を聞く度に彼等の足跡を辿っている気さえする。修験道は未だ神秘のベールに隠された部分が多い。それが悠久の時を経たストーリーと相まって何とも魅力的に映るのだ。現在、役行者像の後側は通行止めになっていて、脇に新たな道が設えられた。黒築地の絶景を眺められなくなってしまったのは少し残念だが、この道や広前の整備は柴崎さん達が独力で行っているそうだ。徐々にではあるがこの講に参加する人達も増えているように思う。大平山が求心力となって、かつて盛況だった頃の黒山三滝周辺、さらには越生町に活力が戻るように願って止まない。