今年は黒山熊野神社の当番にあたっている。神社清掃が8時30分からという事だったが、連休は早朝から関越道が渋滞するのは目に見えている。で、東京の自宅から一般道を走りる事1時間30分、集合時間前には熊野神社に着く事ができた。もう長年、越生町に通っているので、じつのところ関越道を使っても時間的には大差ないのだ。神社清掃は社務所を開けて、竹箒で落葉を掻き集める事1時間ばかり。当番にあたっている皆さんは、黙々と草取りやら掃き掃除に従事している。いつもボランティアはしているが、こういった姿勢はじつに気持ちがいい。最近では連帯よりも個人の利益が優先され、”忙しい”とか”仕事だから”とかの理由が成り立ってしまう。しかし、各々の事情はともあれ、もはやそういった風潮も過去のものと考えたほうが良い。格差社会という意識は、端的に世相を反映している。さて、先だって隊長さんに誘われたので、今度はこちらが山旅を企画する番だ。電話連絡をすると、すぐに同行の旨を頂いたので、しばらく行ってなかった山入愛宕山をご案内することにする。じつは「新ハイ」に山入周辺の山行報告が掲載されていたようで、隊長さんもこの尾根に興味津々というわけなのだ。この愛宕山は佐藤源作著「法恩寺年譜の研究」に、太田氏遺跡として掲載されている。愛宕山の手前には小字城山があり、一般には送電線鉄塔のある山を城山と呼んでいる。芹ヶ沢集落からなら容易に登る事もできるが、今回は山城の慈光道監視目的を想定して、敢えて峻険な大菅からの道を選んだ。とはいえ、大菅からのは比高は200mばかり。30分ほど藪を漕いで尾根へと乗り上げる。そして、やや城山山頂に近づいた辺りで平削地を発見し、そこから道を辿ると平場が連続して続いている。城山に登ったのは勿論始めてではないが、少し変則的な登り方をしない限り新しい発見はないだろう。やがて鉄塔巡視路に飛び出し、ほどなくして山頂の鉄塔に着いた。以前登った時には眺望もすこぶる良かったが、今では植林がそれを邪魔している。隊長さんは三角点に興味を示し、あまり見かけない国土地理院の三角点だと喜んでいた。城山で昼食を済ませた後、尾根をわたっていよいよ愛宕山へと向かう。そして堀のある平坦地を過ぎて愛宕山山頂へ。山頂の勝軍地蔵には文久三年(1863)再建と刻まれている。冬場は小杉梅園神社まで見下ろせるはずだが、この季節には眺望を望むべくもない。そしてそこからは比較的歩きやすい尾根道となり、やがて林道へと飛び出す。かつての旧道はこの地点から麦原住吉神社附近に繋いでいたようだ。そこから林道を北に進み、やがて林道が屈折する場所から再び旧道に入る。しばらく行くと旧道に祀られた二体の地蔵と百観音霊場巡拝塔があり、林道に戻ると山入の庚申塔はわずかである。ここで農作業をされた方がいたので、隊長さんが聞き取りを開始。さっそく愛宕山城の根小屋と推定される「源兵衛屋敷」について訊ねている。すると、源兵衛屋敷は意外な事に、山入ではよく知られた存在のようだった。ただ、山中の事とて場所までははっきりとはしない。勘を頼りに布ヶ谷集落の旧道から少し行くと、八幡山神社跡に遥拝碑が建立されている。「法恩寺…」の記述を参考にここから尾根道を下り、八重沢辺りにでれば自ずと源兵衛屋敷も判然とするはずだった。山腹に一反歩の平坦地があれば嫌でも目に付くからだ。が、それらしい平坦地はあるものの、そこにあるはずの石碑が見当たらない。結局、今回は周辺の藪を漕ぐうちにタイムアウト。残念ながら時刻はすでに6時を過ぎている。無理せず楽しみは後にとっておけば良い。そう話しながら八重沢から見上げた愛宕山は、新緑の衣を纏ってどこまでも高く聳えていた。下段左:愛宕山山頂勝軍地蔵 下段右:八幡山神社遥拝碑
このところ少し書き込みをサボっていますが、相も変わらず多忙な日々を送っています。世の中便利になったというか、夜間でも容赦なく携帯メールが届きますし、現代人をやるのも楽じゃないような気がしますね。さて、そんななか隊長さんから高篠峠越えに誘われたので、慈光道探索に出掛けて行きました。定峰に行くには7:30発の西武線レッドアローに乗り、西武秩父駅から定峰行きのバスに乗り換えて栃谷バス停には9:50に着きました。車中では隊長さんにいろいろ資料を拝見させてもらって、本日のルートを確認させていただきました。すでに掲載したとおり、高篠峠から大野橋倉までの古道については知悉していますので、今回は栃谷〜高篠峠までがメインといったところ。ところで、この高篠峠ですが、じつは定峰側の地元の人の多くは今でも大野峠と呼んでいます。これは旧道を呼ぶ時に行先を冠して○○道と呼ぶのと同様で、たとえば越生街道を逆方向に向かう時には秩父街道と呼びます。ですから大野峠と呼ぶ峠が二つあったところで、口角泡を飛ばして論じるまでもありません。栃谷からは観音霊場一番札所の四萬寺を沿道に見ながら定峰橋へと歩きます。まずは慈光道の道標を見つけて隊長さんも大喜び。いえ、私も当然喜んでますが。けれども、すでにその先の定峰橋袂の「大河原道・ち加う道」の道標は、住宅地図で見当がついていたそうです。さすがに隊長さん資料はしっかり揃えてありますね。今回の高篠越えにあったて参考にしたのは山と民族の会『山村と峠道』 で、飯野頼治さんが著したものです。とはいえ昭和五十五年の本でありますから、現況がどこまで変わっているのか隊長さんも不安そうでした。けれども、この季節の定峰集落の素晴らしく、梅・桃・桜が揃って咲き誇っていたのでした。やがて人家も途切れていよいよ傾斜がきつくなり、林道もグネグネと曲りだすと、路傍に大きな庚申様が祀られています。ここで少し後戻りして旧道を探索しながら道草をしてしまいました。この先はいかにも旧道らしく山襞に沿って登り始めますが、川沿いの道に拘って、まずこちらを真っすぐ行ってみる事にします。「水源の森づくり」と板書された散策路でしょうか、本来あまり関わりたくありませんでしたが、思ったとおり途中で陥没していて進退きわまってしまいました。仕方なく頭上を走る林道まで戻ることにしましたが、藪漕ぎ途中でひっそりと佇む旧道を見つけました。山間の旧道は、じつはあまり連続して川岸沿いに進むという事はありません。大雨で増水した時には使えませんし、沢を詰めると思いもよらずどん詰まりといったことがままあります。そこからしばらくは渓流を眺めながら林道を歩き、いよいよ旧道との別されとなると小雨がポツポツと降りはじめました。靄に包まれた観音道は余り痛んだ様子も無く、幻想的な雰囲気を醸し出していい感じです。途中で二條に分かれますが、これは馬達が交錯しないように配慮された古人の知恵。馬達が闊歩していた時代にはおそらく取り決めがあったのでしょうが、果たして右側通行であったのか、それとも下り優先であったのか、今では知る由もありません。そして一度ガードレールを乗り越え、再び峠道を行くととたんにゴミが多くなってきます。峠が近くなってきた証左ですが、悲しいかなこれが奥武蔵の現実ですね。路傍に可憐なまだ咲きかけのカタクリを見つけ、道もいよいよ行き詰まると、そこが山の神の祀られた高篠峠です。すでにいくつもの林道が交差し、昔の面影は伺い知ることもできませんでしたが、古道探索の旅は十分満足できるものでした。この後、旧道を辿ってソネの馬頭から竹ノ谷につく頃には時刻も15:00となっていました。途中小雨の為、食事は摂りませんでしたが、寄り道した時間と相殺してもほぼ同じ時間で高篠峠越えはできるできる様に思います。それにしても今回も隊長さんにはお世話になりっぱなしでした、どうもありがとうございます。おっと、研究会の皆さんには隊長さんが7月に同コースで山行計画を練っていると思いますので、古道好きの方はそれとなく参加してみてください。但し、藪漕ぎはご承知の上でですよ。下段左:定峰神社入口道標 下段右:ソネの馬頭尊
ときがわ町の都幾山慈光寺さんからリンク依頼がありましたのでご紹介します。すでにこの掲示板に限らず「旅の道標」や会報に記事を掲載していますので、慈光寺の詳細はついては今さら語るまでもありませんね。隊長さんもこのところこの慈光寺にすっかりハマッていますし、名刹にしてはあまり観光地化されておらず、それがかえって一時の郷愁を誘っています。http://www.temple.or.jp
16日は久し振りに研究会の山行に参加した。歴史民俗部長のお誘いであるので断るわけにはいかない。部長(隊長)さんは昨年から慈光寺逍遥と題して慈光寺への路を踏査している。当初は大楠から大附を経て、弓立男鹿岩を巡り桃木八幡に抜ける予定であった。しかし、広見越しへ下見に行った際に、峠に佇む三面馬頭尊に魅了されてしまった様だ。何度かメールのやり取りをしたが、広見越しからはお任せするという話しであった。当日は越生駅に集合し、挨拶を済ませて9時にスタート。順路は越生中学の『慈光寺調査誌』(昭和五十八年)を基に、まずは五大尊の馬頭尊へと立寄る。慈光への道標になっているのはいうまでもない。その後はのんびりと歩きながら、津久根の桜堂を経て、佐藤酒造に立寄ってから梅林三叉路の道標へ。今年は越生梅林の開花が遅く、この日満開で車の渋滞や雑踏を避けて足早に最勝寺へと向かった。最勝寺で休憩した後は、大菅→和田の切り通し→大楠(昼食)→小溝坂→広見越し→六万部塚→広見越しという順路である。ちなみに、六万部塚はよくいわれる様な経塚ではなく、あくまでメモリアル的な石碑であって、六万部といわれる地名も同地ではない。通説では"慈光道は鎌倉街道の脇道として整備された≠ニされているが、じつはその痕跡をもっとも今に残しているのは、最勝寺から大菅までの間であろう。その後は大菅の地蔵尊で別れ道となり、和田の切り通しまでは舗装路となっている。この和田集落に姥谷という地名があって、以前から「もしや尾根を越えた都幾川の姥石と何か関連があるかも知れない」と思っていた。じつは前日に越生町の観光ボランティアをしている町田さんに、メールを出してその事を尋ねていたばかりである。後日、返信をいただいたところ、やはり鎌倉以前からこの両者は関連があったとの事で、わざわざ姥石を探し出してくれたそうである。神山弘氏は姥谷を姥捨伝説として結んでいたが、どちらかといえば姥の石化伝説に近く、都幾川では嫁入りの時に姥石の前を通ってはいけないと伝わっている。そして、和田集落は鎌倉武士の和田氏とも関係しているかも知れないと。これは隊長が下見の際に得た情報と同じで、山間地には英傑が登場する話はどこにでも転がっている。が、慈光寺には頼朝が寺を造営した時に、和田義盛が掘ったとされる和田の井という井戸がある。ご存知の通り和田氏は相模の人ではあるが、鎌倉武士が武蔵中原に移住したケースは少なくないし、あるいは和田氏が長期間滞在したおり、慈光寺周辺に足跡を残した可能性もあり得る。近世になると慈光道はなるべく山間地を避けて、広見越しを越えて奥畑(西川原)に向かうようになった。この事は石仏を祀った年代を時系列で追ってみるとよく判る。まず越生梅林近くの馬頭尊が文化三年(1806)、次に最勝寺先馬頭尊文化五年(1808)、そして広見越し三面馬頭尊文化四年(1807)、同じく広見百番供養塔文化四年(1807)、最後が西川原馬頭尊文化四年(1807)。これは単なる偶然などではなく、新道として広見越しから西川原への道が整備された証左なのではないだろうか。つまり、鎌倉街道脇道として整備された慈光道は、ある時点で道筋を大きく変更していたと考えられ、中世の慈光道はもっと直線的に山入から大附に至り、弓立山と飯盛山(金毘羅山)の間の鞍部を通って萩日吉神社に向かっていたはずである。が、その区間はすでにゴルフ場となっており、今となってはもはや確かめる術を失っている。前述の広見百番供養塔にはあから様に「下り 志こうへ」と刻まれており、供養塔の設置された場所の延長には確かに旧道が繋がっている。これは前にも詳述した通り現在は篠藪と化しているので諦め、セオリー通り東尾根林道を下る事にした。しかし、じつは隊長からできれば飯盛山東に続く旧道を通るように依頼されていた。だが、それにはゴルフ場のカートコースを横切らなければならない。そこは鎌倉街道伝承のある横大道である。先の山入から続く中世の慈光道に限らず、この周辺の旧道は凡そこの横大道に繋がっている。東尾根に点在する民家も、古くは生活道として横大道を経由していたはずなので、おもむろに民家脇から旧道と思われる道を進む。しかし、やはり行き着く先はゴルフ場のクラブハウスで、いったん戻して藪を分けながら飯盛山の散策路へと足を向ける。後は勝手しったる道なので、難なく大ガヤへと向かう事ができた。最近はときがわ町で巨木巡りのキャンペーンを張っているせいか、大ガヤ周辺はきちんと整備されている。しかし、心なしか樹勢は衰えているように見えた。その後は萩日吉神社で解散し、慈光寺バス停でたいしてバス待ちをすることもなくバスに乗りこんだ。中世の慈光道はまだ謎を秘めていて、それはそれで魅力的だし興味は尽きない。萩日吉神社児持杉脇に続く旧道がかなり気になるし、和田氏の足跡や姥谷と姥石の関係など…全ては中世から何百年も生き続けてきた、巨木達だけが知っている。下段左:五大尊境内馬頭尊 下段右:大ガヤ
ダイダラボッチの話は関東に限らず、全国各地に広く分布している。最近では「もののけ」で映画になったので、若い人でも知っている事と思う。日本文化の深淵は、ミニチュアだの箱庭などというものではなく、見る人、あるいは聞く人の感性に委ねているところにある。例えば枯山水や盆栽を見て、その背景となる自然をイメージできなければ何の意味ももたない。つまり神話や伝説を映像化してしまうと、その固定観念から逸脱できずに心の拡がりをも足留めしてしてしまう。人間関係もこれと同様で、他人を考えている事を推量し、思いやるという心持ちも徐々に減退している様に思うのは、いい親父のたんなる愚痴なってしまうかも知れない。(市場原理主義においては、確かにそれは大活躍しているかも知れないが…)さて、越生のダイダラボッチ伝説は、ご覧の通り麦原の馬場である。字名は原で、野末張展望台から眺めると峰の中央がポコンとへこんでいて、土地の人は馬場とか(ダイダラボッチの)アシッコと呼んでいる。現地に行ってみると確かに馬場になりそうな広さはあるし、近くの大築城の兵者達が馬を練ったというのも、あながち伝説だけのものとは思えない。それに今は植林されているものの、夏でも不思議と蔓草の類が繁茂しているという事がない。だが大築城の馬場だったにしろ、ダイダラボッチの足跡にしろ、肝要なのは空想の世界でどこまで遊べるかという事だろう。埼玉のダイダラボッチ伝説は各所にあって、その足跡が湖や沼になったり、その多くは地名に起因するものが多いようだ。例えば巨人が粥を煮たのが粥新田峠で、使い終わった箸を刺した所が二本木峠といった具合である。また、秩父の二子山は秩父の山の神が山を作ろうとして横瀬の芦ヶ久保まで来たところ、窪地に足をとられて担いでいた山を投げ出してしまった。これが二子山で、芦ヶ久保はこの時の足窪であると伝えている。これと同様の話は蓑山辺りにもあって、どこもダイダラボッチと結びつけようと躍起になっているようで、失礼ながら微笑ましかったりする。この文明の開けた世にそんな巨人などいるわけがない…これまた剥きになる御仁もいるかも知れないが、ようは山里に暮らす人々の洒落なのだ。それこそ虚ろ話を作った人達の思う壺である。ダイダラボッチ伝説は、しかしその一方で、豊かな自然をイメージさせてくれるという一面もある。山々を眺めていたら突然大入道が現れて、あちこちで様々な逸話を残してくれていると思うとそれだけで楽しいし、口角泡を飛ばして語る愉快な老人がいたら、ぜひ心行くまで話を聞いてみたいと思う。下段左:馬場 下段右:横瀬二子山