「高山不動御七鳥居版木」の刷る参詣道を目にしてから、もう数年来そこに描かれている「龍ヶ谷龍窟」を捜し求めていた。しかし、越生叢書[2]や、地元の人がいう「龍淵」や「龍窟」には今一つ何かが欠けている様な気がした。それというのも「武蔵国風土紀稿」に以下の一文があったからである。■川龍穏寺の右の方にあたり、五 六町をへだてて谷間より落ちる滝あり。これを不動滝と呼ぶ。さまで大なる滝にはあらざれど、間断なく水飛び流れるゆえ、流末に至りては広き川となれり。又、彼の滝壷の下流に龍窟と云う所あり。ここよりも水湧出す。其の余、谷々の清水湊合するもの少なからず。其の川中に岩石多くあり、常に出没し激流するゆえ水勢もいとはげし。この流れ大満村に至り黒山川に合し後、越辺川と唱えり。当村を流るる間を指して他村にては龍ヶ谷川、或いは龍穏寺川などと呼べど、一間許りの小川なれば村内にては反って無名の川なり。■龍窟境内北の方なる山の谷あいにあり。飛泉の末流、この所を流れる。かの古え龍の住みしと云うは此処なりとそ。今尚、窟の広さ、畳五 六畳を敷く程なり。この記述によると百七十年以上前には龍窟の広さも三坪程度あった事になり、現在「龍窟」と呼ばれる流域には、そのような洞穴は見当たらない。そこで入集落の自然石道標から、男瀧(不動瀧)まで沢登りをしようと覚悟を決めた。とはいえ、川沿いに林道も走るし、距離もそうあるわけではないので、危険な箇所さえ慎重に歩けば何とかなるだろう。そうしてあっけなく「龍窟」と呼ばれる小滝を過ぎて、瀧不動に着いてしまった。だが「龍窟」と呼ばれる小滝は、森厳な雰囲気を漂わせているものの、やはり洞穴と呼べるようなものではなかった。―が、しばし逡巡する間に地元の人が通りかかり、運良くお話しを窺う事ができた。「龍淵?ああ、龍窟の事か。子供の頃によく潜ったよ。岩の下は確かに畳五 六畳の広さはあるよ」とのお話しである。「―しまった」正直そう思わずはいられなかった。「高山不動御七鳥居版木」が製作された時代から幾星霜を経て「龍窟」の置かれる状況は、著しく変化していて当然であったからだ。しかし、この事実が結局は幾つもの疑問を氷解させる。或いは「高山不動御七鳥居版木」が描き出す宗教的アジテートは、「四寸岩」に加えて「龍ヶ谷龍窟」も含まれていたのかも知れないと。版木の製作年代は不祥だが、龍穏寺創建以前から修験達の間で「龍ヶ谷龍窟」が聖域として扱われていたとすれば、全ての辻褄が合う事になる。龍穏寺は古くから高山不動を「奥ノ院」と称し、新住職が入山する時には必ず高山不動に参拝するのが慣わしだったという。そしてそれは、開山無極禅師が高山不動に参禅した故事に倣ったものだそうだ。この無極慧徹という人物は佐賀の生まれだが、先祖は児玉党越生氏の出自と伝えられ、桂木寺に参籠した後、龍ヶ谷に霊威を感得して龍穏寺を開山したという。この時、龍ヶ谷道沢には堂沢観音があり、そしてそこを龍穏寺草創として後、五世雲崗舜徳禅師の時に太田道灌父子の協力を得て現在の地に大伽藍を建立したとされる。そして龍穏寺を興隆させたのがこの雲崗舜徳で、伝説では悪龍を有馬山へと追い遣ったのが雲崗禅師とも、或いは開山無極禅師ともいわれている。また、雲崗禅師は龍穏寺の前にある天狗山(羅漢山)に住んでいた天狗と化した悪僧をも帰依させたという。つまり龍穏寺創建に纏わる逸話に登場する龍や天狗は、悉く既存宗教や修験者達に置き換える事ができてしまうのだ。道元が曹洞宗を興したのが鎌倉期であるから、無極禅師が越生を訪れた頃には曹洞宗もまだ新興といえた。平安仏といわれる桂木寺や堂沢観音、また高山不動は既存宗教として越生郷を地盤に権勢を振るっていただろう。そしてそこに無極禅師が入山するにあたり、高山不動や「龍ヶ谷龍窟」は大きな宗教的アジテートになり得たであろう。多くの修験者達が跋渉するこの山域に、布教に対する一筋の光明を見出したとしても不思議ではない。「雨乞い龍神紀行」にも記した様に、何故、曹洞宗の龍穏寺が雨乞いネットワークとともに教線を拡大していったかもこれで謎が解ける。川角村を一ノ鳥居とした高山不動は、如意や大谷を経て龍ヶ谷に至る。そしてこの山域を中心とした龍ヶ谷を直線的に抜け、道沢から登頂すれば御嶽社のある「四寸岩」へと辿り着く。もう一人のご老人からはかつて「三枝庵」のある山中に天王社があり、そこからは村内四方に道が抜けていたと伺った。勿論、この天王社へ向かえば小寺から道沢にも行けたという話であるから、この道が高山不動の参詣路だった可能性は高い。因みにこの天王社にあった灯籠が、現在、龍穏寺惣門前の岩上に建立されている灯籠なのだそうだ。加えて井戸入の御嶽社についてもお話を伺ってみたところ、あの社は明治期に浅見氏(黒山)、藤野氏(大満)、島野氏(龍ヶ谷)が勧請したものだそうだ。また、大正十一年(1922)の「黒山案内」に次の記述を見ることができる。「龍穏寺は五大明王威徳によって発端ありし故、今に御朱印に「龍瀾」という所に鳥居寄進あり」と―。これで、この龍穏寺のもと朱印地の「龍瀾」が、高山不動山下の鳥居であることが明白となったはずだが、肝心の「龍瀾」にあったという鳥居を見た者がいない。―いや、唯一人それを知る人物がいた。前高山住職・田中隆孝氏の話によれば、「高山不動山下の鳥居は黒山と龍ヶ谷の中間の山中にあった。私は先代住職からその鳥居が高山不動の一ノ鳥居と教わった」との事であった。ご存知の通り、明治初頭に「神仏分離令」が発布され、寺院と神社の区別は明確に別けられ、翌年に修験道も廃絶された。だから大正期においてまだ「龍瀾」に、高山不動の鳥居が寄進されたとなると辻褄が合わない。つまり、明治期にはまだ修験名残りの人々がいて、御嶽社を勧請するとともに、じつは高山不動の「一ノ鳥居」をも残していたのではないだろうか。―ふと、そんな思いで再び御嶽社に訪れてみた。社には昭和期中頃に打ち付けられた木札があった。「奉納 一ノ鳥居」―御嶽社の参詣路に鳥居がいくつも寄進されたとも思えず、「一ノ鳥居」とわざわざ記した事からして、おそらく田中住職が修行時代に見たという山中の鳥居とはこれだろう。そしてこの時、長く想い描いていた「高山不動参詣路」のパズルは、「パチン」と音を立てて完成した。下段左:龍ヶ谷龍窟 下段右:龍穏寺山門と蒲団岩(蒸麩岩=シェンフ岩)
このところ、日頃の不摂生がたたり何年ぶりかで風邪を惹いてしまった。世間様ではシルバーウィークとやらの連休だそうだが、こちらはお彼岸の親戚廻りもあるので、早目に散策しようと久し振りに城山に向う事に決めた。大築城は先年、県教委の調査が実施され、その際に石積み遺構が確認されて青山城跡、腰越城跡、小倉城跡との類似性が顕著になった。既に狼煙台といわれることも無くなってはいるが、未だ郭内の経路等が判然とせず、引き続き今後の調査に期待がもたれる。今回もいつもと同様に麦原住吉神社に駐車させてもらい、夏内から旧道を辿って峰集落へと向かう。そして山道となるが、目に付くのは路面を抉るオートバイの轍。低山とはいえ近頃はこういった輩も徘徊している。やがてモロドノ郭に到着する頃、山腹からオートバイの排気音が迫ってくる。しかし、登山道の一部が藪っぽくなっていた為、途中で引き返したようだ。未舗装の林道ならまだいくらもあるはずだし、全くの非常識としかいいようがない。モロドノ郭で一休みして目前の山並みに瞳を放つ。あじさい山、龍穏寺裏山、そして桂木峠…その先に映る山は午頭山?―いや、あの突起は龍ヶ谷山か…。今まで気付かなかったが、毛呂氏の龍ヶ谷山要害城とこのモロドノ郭は直線7qで、何の障害も無く龍ヶ谷山要害を望む事が出来たのだ。毛呂氏の梅園神社再建が河越夜戦(天文十四年・1545)よりも十年も前の話だとすると、やはり後北条氏が松山城を陥れる以前から、モロドノ郭は毛呂氏による境目の城として存在していたのだろう。河越夜戦以降、武蔵中原の豪族達は管領上杉家につくべきか、或いは後北条家に帰参するかその去就に迫られた。そしてこの時、河越での公方・管領家の惨敗をみて、その重臣であった松山城城主上田朝直も主家を裏切り、松山城は後北条氏の最前線に位置する事となった。そしてこの松山城を小田原城の支城としてさらに枝城網を構築していった。大築城はその枝城の一つであって、けして慈光寺攻略の為だけの陣城ではない。むしろ城番を常駐させ、反抗勢力に目を光らせる番城とするべきだろう。河越夜戦では後北条軍一万一千に対して、公方・管領軍は七万とも八万ともいわれる軍兵を擁して敗退している。上田朝直のように巧く後北条氏に帰参できれば良いが、一族郎党を率いて領地を追い遣られた豪族達もけして少なくなかったはずだ。そして、そうした者達が捲土重来を図って拠ったのが慈光寺ではなかったか。比企氏の影響を受けた源頼朝が祈願所としていた慈光寺は、それに倣って鎌倉武士達の多くが大檀那となっていたはずだし、山岳寺院はそのまま天然の要害となる。ある意味、治外法権的な位置にあった慈光寺には、こうした行き場を失った在家門徒武士団が武装拠点として結集し、反北条家勢力として反撃の機会を窺っていたものと思われる。(この状況は比企岩殿観音も同様だろう)そして、この時点では慈光領との境目が泉川で、大築城のある尾根が後北条勢の防御ラインともなっていた。大築城が急造成の城といわれるのは、河越夜戦から少なくとも三年以内に慈光寺攻略が完遂されているからである。それは慈光寺観音堂本尊の千手観音像が、天文十八年(1549)に造立されている事からみても明らかだ。しかし、この三年間という時間は、強大化した後北条家の関東計略の侵攻スピードからしてみるとさほど早いともいい切れない。まして天然要害を巧みに利用した山城であれば、さしたる築城期間をも要さなかったものと思われる。いや、むしろ目前に山城を構築する様を見せ付けられる慈光寺方にとっては日々脅威の連続であったに違いない。モロドノ郭からは一條の道が大築城の堀切部に向かっていて、現在これが正規の登城ルートだ。この道を行くと二つの竪堀を跨ぐことになってしまい、竪堀の、敵勢の横移動を阻止するという企図に反するのだが、これら竪掘は築城の際の材木などの資材搬入経路をも兼ねていたはずだ。竪堀がいずれも本郭虎口に向かっているのは、つまり本郭に矢倉など建造物があった可能性を示唆している。また、石積み遺構が確認されたのは本郭東塁の法面である。石積み遺構は防御の為でだけではなく、建造物の為の基礎地盤補強という意味もあったのではないだろうか。過去に行なわれたトレンチ調査では土師器、常滑焼き破片などが出土されている。腰郭への経路は今一つ判然としないが、これに対して搦め手口ははっきりしている。椚平側の越セン岩と猿岩は搦め手の強力な防御ラインである。泉川を渡ってオシトドを登って来た道は、まず猿岩が谷になだれ込む箇所を穿って狭間を設け、越セン岩の頂きに武者溜りを設けている。この場所を迂回しようとしても、猿岩が行く手を阻む。今は樹木に覆われている猿岩だが、去る岩ともいわれる由縁よろしく大築城を目前として屹立しているのだ。攻城勢が本郭を背後から狙うには、唯一このルートしかない。下段左:小築山平坦地 下段右:慈光寺観音堂下より大築城を望む
越セン岩を過ぎると道は鞍部に達し、猿岩峠の標識がある。そしてモロドノ郭に向かい瘠せた尾根渡った所に「大築城」への指標がある。この道は遠見までは搦め手への道だが、峻坂を稜線歩きのハイカーが道をつけて本郭へと登っている。久し振りに訪れた本郭からは、慈光寺方面を望むことは残念ながらできなかったが、大築城は馬場から遠見を経て本郭、そして小築山からウージー坂までを含めた尾根上に構築された城郭のように思う。麦原の人達は地域活性に積極的で、大築城と小築山を周回ルートとして指標を整備してくれている。本郭から尾根を切り欠いた堀を下って東に向かうとすぐに小築山との鞍部に達する。そして指標に従えば小築山の山頂に向かうのはわけもない。その頂きで、こちらが烽火台に用いられたと想像するのは難くない。しかし、それよりもさらに東に向かって40mほど比高を下げた削平地が気になる所―いわゆる大築城の段。伝説では水に見せかけた白米で馬を洗ったともいわれ、これと同様の話は松山城にも残っている。曰く、武田勢が篭城する松山城に手を焼いていたところ、城兵は余裕で馬を水で洗っている。さぞや城中には水がふんだんに確保されていると武田勢に見せかけていたのだが、「あれはただの白米じゃ」と酒屋の婆が密告したので、信玄は甲州から金堀衆を呼んで水の手を切ったと―。じつのところ、この削平地も慈光寺からはよく見える。大築城(陣城)構築が慈光寺勢に脅威を与える為なら、こちらにも何らかの建造物があったとしても不思議ではない。そして道はさらに進んでウージー坂と西行杉方面の別されとなる。折りしも、ちょうど地元の人が間伐作業をしているところに出くわした。挨拶の為に声を掛けたのだが、突如現れた怪しい男にまるで天狗にでも会ったかのような表情をしていた。こちらの道から下山するハイカーは滅多に無いし、ましてこの界隈を一人歩きしている者も稀なので無理のない事かも知れない。そしてこの別されまで来ると、奥畑(西川原)からの入口となるウージー坂まではわけもない。下るだけなら20分もあればバス停に着くはずだ。また、源頼朝が慈光寺祈願の為に敷設した鎌倉街道脇道「慈光道」もさほど遠くない。成立年代不詳、『天正庚寅松山合戦図』の惣郭に見える大附左近清久が一族発祥の地「内手」もまたしかりである。以上から比企の城に共通する縄張りは上田氏によるもの、そして城番は大月氏と考えても良さそうだ。さて、その上田氏だが「新編武蔵国風土記稿」によると、病に悩んでいた上田朝直が霊夢によって浄蓮寺の尊像に導かれ、これを探して祈願したところ忽ち平癒したので、松山城中の者は悉く浄蓮寺の檀那になったとある。思うに、上田朝直は自ら進んで浄蓮寺に帰依したはずだ。天海によって関東の比叡山と呼ばれる東叡山寛永寺が建立される以前、源頼朝が庇護した慈光寺は台密の関東別院となっていた。見方を変えれば反後北条勢はその冒せざるべき聖域を根城にしていたともいえる。在家であれば妻帯もするし、酒肉を食む者もあったであろう。当時、この既存の宗教的権威に信仰上から対抗するには、法華宗への改宗も必然であったのだろう。上田氏は慈光寺焼き討ち後の天文十九年(1551)に、かつての慈光領を浄蓮寺に寄進している。そしてそれ以降、多くの檀那衆を失った慈光寺がかつての栄華を取りもどす事は終になかった。下段左:杉木立の中の猿岩 下段右:大築城本郭
『越生聖護院門跡講』はかつて聖護院門跡が大平山に登拝した事で、九月十二日を縁日としている。講長の柴崎さんは山本坊所縁の家柄で、大平山の役行者像とは縁が深い。以前は個人で参拝していたが、講を立ち上げてから私も何度かご一緒させていただいている。一昨年には何者かに役行者像が引き倒されて、頭部を一失するという事件に見舞われたが、幸いにして川越市の彫刻家新谷一郎さんの手によって見事に修復されている。また、この修復費用は町助成金と越生町内の約百二十人からの浄財で賄っている。当然ながら私も微力ながら援助させて頂いているので、お誘いを受けて参加させていただく事にした。とはいえ、関越道の土曜渋滞はいつもの事で、早出したつもりが九時の集合時間にはギリギリセーフ。店の前に出たところで柴崎さんの車に拾ってもらう。そして一路唐門へと向かい、そこに車を駐車してから大平山への山道を辿る。山道とはいっても役員さん達が事前に整備をして置いてくれた為、ご高齢の人達にも無理なく歩けたはずだ。役員さん達は、凡そ一週間にわたり役行者像の頭部を捜索するほど信仰心が篤い。それにしても像を破壊するのみならず、像の頭部を持ち去るという行為は単なる悪戯とも思えない。ともあれ、計らずも当該事件によって、役行者像を取り巻く環境も良くなっているのもまた事実だ。(現在、役行者像は町文化財に指定されている)神山氏の著述によると、この役行者像は幕末に尾張屋三平が奉納したと記されている。しかし、実際には西戸村講中(毛呂山町)が奉納したものである。確かに尾張屋三平は同時期に、町内の要所に黒山三滝及び大平山への道標を建立しているので、伝聞ではそれも無理からぬ事かも知れない。尾張屋三平が吉原から引き連れてやって来たのは華美を極めた花魁道中だから、あるいはこの時に、西戸村でも大平山への信仰意識が高まったようにも思える。修験山本坊は室町時代に黒山霊場を開き、後に一族は西戸村に移住している。相馬家配下の浅見氏、柴崎氏もこれに追随しているので、前出の柴崎さんが縁者というのはそういった事情からである。越生には古代から和州三山になぞらえた霊場があったという。この事はすでに『旅の道標』―西山・森の詩―に記した。そしてこの伝説をもとに、黒山霊場を開いたのが山本坊(相馬家)だといえる。大高取山山塊が吉野金剛界だとすれば、山本坊は黒山山塊を熊野胎蔵界とする事によって、越生郷一帯に拡がる霊場を現出させたのだ。しかし、黒山にはもともと「藤原御大尽」と呼ばれる一族が先住していた。隣町の豪族・毛呂氏の遠祖は藤原氏であるから、黒山にその種を落としたとしても、まるで根拠の無い話ではない。(京から来た貴人が越上山に御幣を立てたという伝説も、藤原(毛呂)氏であるなら至極尤もらしい)山本坊円栄が平将門の後裔(相馬)を名乗ったのも、ある意味必要に迫られて、という事もあったのだろう。さて、この日訪れた役行者像は靄に包まれて幽玄な雰囲気の中にあった。修復された役行者はどこか微笑んでいるようにも見える。彫刻家新谷さん渾身の力作であるし、修復して数年を経て胴体との違和感もなくなった事もあって、役行者像は以前と少しも変わらない状況になりつつある。だが、破壊されてしまったものはもう二度と元には戻らない。自分が知る限りでは役行者像は時には微笑んでいるように見えたが、またある時には周囲を威圧する威厳を見せた。土地の人は「大平山の鬼」と呼んで、あまり近付かないようにしていた時期もあったという。聞くところによると、かつての像には象眼が嵌め込まれていて、夕暮れ時に訪れるとそれがピカーリ、ピカリと光っていたそうだ。一方、ときがわ町の慈眼坊(武藤家)は山本坊副先達を務め、『着色墨書役行者絵巻』を今に残している。また、この慈眼坊が別当を務める多武峰神社の由来は、七百六年に大和国多武峯山から藤原鎌足の遺髪を遷して多武峯大権現を建立したのが始まりとされ、さらに室町時代に毛呂顕季が奉納したという鰐口がある。事の真偽は判らないが、そこに権威を巧みに取り込んでいった修験達の思惑が垣間見えるようで興味深い。伝説は山谷を跋渉する修験者達によって、日本各地に伝播され、同じ様な話を聞く度に彼等の足跡を辿っている気さえする。修験道は未だ神秘のベールに隠された部分が多い。それが悠久の時を経たストーリーと相まって何とも魅力的に映るのだ。現在、役行者像の後側は通行止めになっていて、脇に新たな道が設えられた。黒築地の絶景を眺められなくなってしまったのは少し残念だが、この道や広前の整備は柴崎さん達が独力で行っているそうだ。徐々にではあるがこの講に参加する人達も増えているように思う。大平山が求心力となって、かつて盛況だった頃の黒山三滝周辺、さらには越生町に活力が戻るように願って止まない。
八月中は暑い盛りの奥武蔵は遠慮して…などと思っている間に、既に奥武蔵の山々は初秋を迎えている。その間、会報の為に稿を起こした「布御前」の逸話は、少し話が長くなり過ぎた。この夏に子供達はやれ蕎麦粒山だの大菩薩などを闊歩していた様だ。「ちぇっ、いい所を歩いてるなぁ。でも君らには奥武蔵はまだ少し早いよ」などど負け惜しみを言いつつ、シーズンに備えて鈍った足を慣らす為に、顔振峠から高山不動奥ノ院まで山歩してみる事にした。とはいえ、勝手知ったる道でもあるので、まずは腹拵えといった具合で平九郎茶屋に立寄ってみた。だが生憎と、この日は『視覚障害者マラソン』が開催されていて店は満員。「後で来るから―」と言い残してまずは傘杉峠へと向かう。傘杉峠はご存知の通り、峠の標柱があるだけの、車でくればまず見落としてしまうような峠である。この峠は別名「八徳峠」とも呼ばれ、かつては黒山集落と八徳集落を結ぶ重要な峠でもあった。峠にはその名通り、傘を開いたような大杉があったそうだが、それも平九郎茶屋の先代のお婆さんの頃の話で、グリーンラインが建設される頃には既に枯死していたそうである。そして、この峠もご多分もれずグリーンライン(地元の人はスカイラインとも呼ぶ)が建設されたばかりの頃には大変に盛ったそうで、茶屋もここで商売を始めてかなり賑わっていた。それ以前の峠は笹の原で、それも畑地の名残りだと言う。当然ながら山ノ神の祠もあったはずだが、今はそれすらも見当たらない。それでも熊笹の原だけは僅かに残っていて昔日の峠を彷彿とさせる。奥武蔵の峠はここに限らず、峠越えを完遂させるルートが少ない。何故かといえば、交通機関の都合によって峠をピストンさせる様にコースを設定しているからだと思う。例えば西武線吾野駅から傘杉峠を越えて、黒山三滝を経て越生に向かい東武線を利用するなどといった事はまず稀であろう。コースが設定されていなければ、当然だが旧道もわからず車道歩きとなってしまい、私とて実に奥武蔵らしい八徳集落だって歩く気にはならない。まして峠の郷愁を失ってしまった感のある傘杉峠へ向かうとなれば尚更だろう。ただし地権者の了解は勿論必要だが、峠の木々を伐って展望を良くすれば話は別だ。そしてやはり眺望を全く失ってしまった黒山展望台の現状を何とかすれば、黒山ひいては越生町へと人の動線を走らせる事ができるかも知れない。飯能市側に較べると越生町側の山々は本当に暗い。植林された杉桧は手入れもされず繁茂林立して陰気を呼び、とてもではないが人の集う場所にはなりそうもない。そして次の花立松峠もT字の峠で、瀬尾にも下れず行き場を失ってしまっている。ただ、花立松峠はもともと別名アラザク峠と呼ばれるように比較的新しい峠なので、高山街道を使えば事は済む。しかし七曲りを過ぎるとこちらも行き止まりで、グリーンラインの擁壁を何とかしなければならず、道標の設置と道の整備は必要だろう。さて、高山不動奥ノ院(関八州見晴台)に近づくにつれ、気がかりな事が一つある。それは奥武蔵研究会の古い会報によく登場する「達磨岩」で、その記述から推定はできても、少しも達磨に見える岩に出会った例が無い。昔日の旅人達が慕ったはずの岩が無くなるわけでもなし、そうして今回も達磨岩を気にしていたのだが、ふと「七曲りから旧道を下ってみれば良いのでは」という気になった。先ほどの行止りの道からちょっと上を見上げればいいわけである。おそらく戦後すぐにはこれほど密集した杉木立ではなかったはずだから―すると木立の中には確かに達磨と呼べる岩があった。黒山展望台の岩岳や桧岩等もそうだが、旅人達がちょっと一休みしたくなる様な、圭角と呼べるような岩ヶ根は、既に木々に埋もれて目立たなくなっている。達磨岩がいつか人々から忘れ去られてしまうのも、ある意味時代の流れと呼べるかも知れない。最近では高山不動奥ノ院も直下に駐車スペースができて、以前に較べると車で訪れる人達には重宝だろう。しかし便宜が図られたらそれなりに、早くも周囲の迷惑を顧みずに無線を持ち込む輩がいたりする。里山はちょっとした事でもカラリと様相を変えてしまう事が多い。そこに集う者は、マナーを尊守する心構えも必要だろう。ところで、今回高山不動奥ノ院へ訪れたのはもう一つの訳がある。それはいつも参考にしている『新編武蔵国風土記稿』の高山不動の絵図で、例によって精緻な描写が見るものを魅了する。この絵図を描いた場所は果たして何所なのだろう。関八州見晴台で周囲を見渡した後、帰宅してからちょっとカシミールで再現して見た。描かれたのは幕末であるから文政の大火以降という事になるが、不動堂の隣りに「大鐘明神」として無間の鐘が祀られてるのが興味深い。因みに「元不動」とあるのが奥の院で、常楽院は「別当」と記されている。http://homepage3.nifty.com/mitishirube/utiagesan/takayama3.gif下段左:傘杉峠(八徳峠) 下段右:達磨岩