メッセージ
 西南デーについて
2008年5月11日の週報より

 3年前から西南学院は、諸教会の西南学院に対する日頃のご支援に応えるという意味で、5月中旬に「西南デー」を設けて、西南学院の教員のうちで説教奉仕の可能な者を、福岡市周辺の教会の希望に基づいて、主日礼拝の説教者として無償で派遣する、ということをしてまいりました。今回は私が春日原教会に派遣されて、本日の礼拝説教を担当させていただくことになりました。私でよかったかどうか、すこし心配ではありますが、派遣を要請してくださって、ありがとうございました。また常日頃西南学院のことを、とくにバプテスト連盟の教派神学校としての西南学院大学神学部のことを覚えてお祈りいただき、またお支えいただいておりますことに対して、心からの感謝を申し上げます。今後ともどうぞよろしくご支援いただけますように、心からお願い申し上げます。
 さて、今日は「ペンテコステ」すなわち「五旬節、聖霊降臨祭」の日でありますので、新約聖書では「聖霊」についてどのように語られているのかということについて、ともに考えてみたいと思っております。「ペンテコステ」という言い方はルカの記した「使徒言行録」しかしておりませんし、そこで与えられたとされている「異言」を語る賜物についての理解も、ルカとパウロとでは、かなり異なっております。今朝は主としてパウロが「聖霊」についてどのように語っているのかに注目して、それが「十字架のイエス・キリスト」と深く関わった形で展開されていることについて学んでみたいと思います。
(西南学院大学神学部長 青野太潮)

 全国小羊会キャンプ・リーダー研修会報告A
2008年5月3日の週報より

 全国小羊会キャンプと同時に開催された「リーダー研修会」の講師は、古賀教会の金子敬牧師でした。二回の講演と分団、そして分かち合いの時などが持たれ、充実した研修会でした。
 金子先生の講演の中で「子どもは将来を担うのではなく、今を担う(老人もすべての人が…)」という言葉がありました。これまで「小羊会は、教会の将来を担うクリスチャンホームの子どもたちへキリストを伝えること・信仰へ導くこと・教会のメンバーとして訓練すること・世界に目を向けさせること」と意識していた私にとって、「今を担う」という言葉に目が開かれた思いがしました。
 「将来ではなく今!」、考えてみれば子どもたちには子どもたちなりの力があります。導き方によっては大きな働きをしてくれます。小さいながらも同労者であったことに気づかされました。同労者なのですから、教会に来られる教会員の方がお互いに声を交わされるのと同様に、この小さい人たちにも声をかけたり、祈ってほしいと思います。また、100%の奉仕は難しいかもしれませんが、お手伝いが必要なときには声をかけてください。そのような交わりの中で、子どもたちはこの教会の兄弟姉妹の「信仰によって培われた人格」を受け継いでいくはずです。
 「小羊会」と「教会学校」は似ているようで違います。伝道であり福音の種まきが教会学校であるとすれば、小羊会は実践・訓練・交わりであると言えるでしょう。小さな子どもたちが大きく育つよう、共に祈り、共に見守り、共に関わって行きましょう。 (リーダー 末松園子)

 全国小羊会キャンプ・リーダー研修会報告@
2008年4月20日の週報より

 去る3月26日〜28日、天城山荘には全国より新小5・6年生の子どもたち142名とリーダー研修会に参加する大人61名、講師やスタッフ36名、託児の子ども7名、総勢246名の人々で沸き返っていました。この二泊三日、ここで初めて会う人と一緒に寝泊りし、グループごとに学びの時を過ごすわけです。部屋割りのメンバーとグループ活動のメンバーは違います。食事の席もクジ引きで決まり、毎回新しい顔ぶれで食事をします。同じ教会から参加しても一緒になることはほとんどありません。しかしこのような中、子どもたちは誰一人心配することもなく、初めて会った小羊とうち解け、新しい友だちをつくり、グループ活動やテーマの学びを熱心にしていました。
 折しも今大会は20周年の記念大会でした。最初のプログラム(ウェルカム)では、伊藤世里江キャンプ牧師がイチゴになってケーキの中から飛び出してきてみんなを驚きと喜びに導いてくださいました。また、第一回キャンプ牧師だった加藤亨先生をゲストに、またその時、小羊として参加していた松藤一作先生と岩崎光洋先生(共に現在は牧師)をリーダーに迎えて、子どもたちへのお話と指導をしてくださいました。
 春日原教会からは6名の小羊が参加しましたが、感動と刺激と恵みをいっぱい受けて帰ってきました。よほど楽しかったのでしょう、帰りの新幹線は、みんなくたびれて寝てしまうところ、三島から博多に着くまで、よく話し、よく笑い、よく食べてはじけていました。きっと彼らにとっては、教会(魂)の修学旅行になったと思います。キャンプで学んだこと受けたことを周りの小羊たちに伝えてほしいと願っています。(リーダー研修会の報告は次回…) (リーダー 末松園子)

 恵みの業・礼拝(イザヤ書56章1〜8節)
2008年1月13日の週報より

 1月を「スチュワードシップ月間」として礼拝を守っていますが、私たちに与えられている時間をどのように管理・活用していくかは、スチュワードシップ(神の恵みの管理)を考える上で欠かすことのできないものです。一週間の「初穂」を神に献げるとき、私たちは何を意識し、何を期待し、何を求めているでしょうか。
 イザヤは「正義を守り、恵みの業を行え」という主の言葉を述べています。「第三イザヤ」と呼ばれる56章以降の中心的使信の一つが「安息日の遵守」ですが、(2節の表現から)1節の「恵みの業」は「安息日を守る」ことと深くつながっていると言えるでしょう。キリスト教界では主イエス・キリストが復活された日曜日を「主の日」と呼び、礼拝をささげています。「安息日」=「主の日」と理解しましょう。
 礼拝はまず神御自身が私たちに御自身を示してくださり、語りかけてくださることによって始まります。その語りかけに対する応答として(例えばアブラハムは)祭壇を築き、主の御名を呼んでいます。そこに礼拝の内実があります。そして礼拝後に、祝福された者としてそれぞれの場に遣わされていくところに礼拝に押し出される一週間の歩みがあります。
 私たちは、礼拝に出席し、説教や讃美歌を通して「恵みに与りたい」と思いがちですが、「わたし(主)の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」(7節)者とされ、「正義を守り、恵みの業を行え」(1節)との勧めに応答して生きていくこと自体が「恵み」なのです。礼拝をささげることは、教会にとって(また私たち個人にとっても)「恵みの業」そのものです。             (牧師 末松隆夫)

 平和の君なるイエス
2007年12月23日 週報より

 本日の聖書箇所(イザヤ書9:1〜5)は、世界で最初のクリスマス(イエス様の誕生)より700年も前に語られた預言者イザヤの言葉です。
 21世紀の現代社会も様々な闇が覆っていますが、そこに光が与えられるのを見たとイザヤは語っています。その明るさは「ひとりの男の子(イエス様)がわたしたちに与えられた」ことによると説明し、様々な呼び方をされることを語っています。そのひとつが「平和の君」です。
 イエス様は、武力や経済力で威圧的に人々を支配されることはなく、逆に、人々の下に立ち、貧しい人を支え、病人を癒し、人々の心に本当の平和を実現するために来られました。神様が私たちにプレゼントしてくださったその「平和の君」を心に迎え入れる日がクリスマスです。
 まず「わたし」の中に平和が実現することが大事です。次は「家族」の中に…。「国家」の中に…。そうやってはじめて世界に平和が実現されていくのではないでしょうか。
 神の独り子であるイエス様が、マリアとヨセフの子として生れ、飼葉桶の中に寝かされたことは、最も低いところで生まれられたことを意味し、最も低いところにいる人たちのための救い主として来られたことを意味しています。と同時に、「弱さ」を抱えつつも、家族としてのつながりを持とうとしている者たちの中に生まれられたという意味もあると言えるでしょう。「家族の再生」をクリスマスに今一度じっくりと考えてみませんか!(牧師 末松隆夫)

 光の中を生きる
2007年10月7日 週報(巻頭言)より

金子みすゞさんの作品の中に『明るい方へ』という詩があります。
「明るい方へ 明るい方へ。
 一つの葉でも 陽(ひ)の洩るとこへ。
 藪かげの草は。
 明るい方へ 明るい方へ。
 翅は焦げよと 灯(ひ)のあるとこへ。
 夜とぶ蟲は。
 明るい方へ 明るい方へ。
 一分もひろく 日(ひ)の射すとこへ。 
 都会(まち)に住む子等は。」
この詩には、都会の子どもたちが光に向いてほしいという祈りのようなものを感じます。
 「光」に相対する概念として「闇」があります。聖書では、「闇」は希望のない姿を表したり、私たちの罪を表す言葉として用いられている場合が少なくありません。私たちの中に「闇」があります。
 8節には「既にまことの光が輝いている」とありますが、既に救い主が来られ、私たちを照らしてくださっている故に、「闇」を抱えつつも「光」の中を生きることができるのです。
 裏切りや離反、反キリストの動きなどが渦巻いているような状況の中で、「それでもなお、光は輝き、キリストの愛と赦しがあなたがたに与えられているのだから、あなたがたも互いに赦し合い、互いに愛し合い、光の中を生きるように」と、聖書は私たちに勧めているのです。光を真正面に見据えて、明るい方へ、明るい方へと歩いて行きましょう。主にある我等は!
(牧師 末松隆夫)

 老いてなお
2007年9月16日 週報(巻頭言)より

 世間では65歳から「高齢者」に位置づけられていますが、自治会等で開催される敬老祝賀会に65歳の人が出席することは少ないようです。自分が「高齢者」に加えられることに抵抗を感じていることの表われなのかもしれません。人は年を重ねることをマイナスイメージで捉えているように思われます。しかし、クリスチャンは「老い」を肯定的に受け止めることができることを聖書を通して教えられます。「敬老の日礼拝」の今日は、シメオンとアンナという二人の「高齢者」を通してそのことを学びたいと思います。
 世間では、年を重ねれば力が衰え・仕事量が減り・役に立たなくなってくると考えます。しかし神さまは決してそのようには思っておられません。年老いてもなお、主の器・主の証し人として用いられることを二人は実証しています。
 彼らに共通していることは、老いてもなお、自分に与えられた使命に生き、しっかりとした希望を持っているということです。「年を取ると昔のことばかりを懐かしむようになる」と言われますが、それは自分の前に「希望」が見えなくなるからではないでしょうか。老いてもなお、自分に与えられている使命を認識し、神の言葉に支えられ、「希望」をしっかりと見据えて歩く人は、前向きに生きていくことができることを、学びたいものです。 (牧師 末松 隆夫)

 信仰の一歩を踏み出すとき
2007年9月2日 週報(巻頭言)より

 この9月から春日原教会の牧師としての働きがスタートしました。新しい出会いが起こされることに喜びや期待を抱くのと同時に、「こんな自分にやっていけるだろうか」との不安もあります。それはみなさんも同じではないでしょうか。精神科の医師は「何か新しいことを始めようとするとき、必ず心にゴツゴツしたものを感じる」と説明し、「それを克服する方法は、そこに慣れること・時間を共有すること」だと述べています。お互いにまだゴツゴツしたものがあるかと思いますが、一日も早くそれがなくなって心から交われるように、日々信頼関係を構築して行きましょう。
 本日の宣教は、ヨシュアたちがヨルダン川を歩いて渡った箇所から恵みに与ります。よく似た出来事として出エジプト記14章の「葦の海の奇跡」がありますが、契約の箱を担いだ祭司たちが水の上に足を踏み入れるまで川の水が分かれていなかった点が大きく違います。水がまだ流れている状況で神の言葉を信じ一歩踏み出した祭司たちの信仰を読み取りましょう。
 状況が自分の願いどおりに変わってから行動することはたやすいことです。そこには「信仰」は必要ありません。しかし、往々にして、神は私たちに「信仰」による一歩を踏み出すことを求め、その神の言葉に従うときに新たな道が開かれることを経験させてくださるのではないでしょうか。共々に新たな一歩を踏み出せたことを神に感謝いたします。
(牧師 末松 隆夫)

 信じる力
2007年5月6日  週報(巻頭言)より

 連休が終わり、何か休みが終わった寂しさも感じます。この時これからの歩に不安が迫るのです。4月から始まった学校ですが、続けてついていけるのか。入社した仕事はどうも私には違うように思う。人との付き合いは無理にも思うと、次々と4月から始まったばかりのスタートに不安が覆ってきます。一方自信一杯で始まったのですが、余りにも自分の姿勢とは違うと、これは不安ではなく不満に出会っている人もいます。このことについて誰と相談すべきか。本当に人生の最後まで信頼し得る方は誰か、確かにそのような人に出会えるときは幸いですし、人の助言も大切です。
しかし「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない」(ルカ21:33)とすべてが変わる中で変わらぬ導き手である主イエスのみ言葉に、生きることを今確信する時です。
 人生の歩みの中には数限りない誘惑が待っています。旧約聖書に出てくるサムソン。彼は偉大な力の持ち主でした。他国はその力を恐れ、その力の出所を探るため、美女デリラを近づかせ誘惑の中からそれを知るのです。その力が除かれ、捕らえられた彼は、全くの
無力者となります。即ち神から与えられた力は、神を見失う時彼はあわれな者となりました。しかし彼は悔い改め再び神に帰る時、力は与えられたのです。殉教者ステファノは神に従う時、彼は死をも恐れぬ生涯を歩みます。わたしたちも誰に聴き、従う人生か、  このときこそ決断する大切な時です。
(名誉牧師 伊藤 隆夫)

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